粟生線80年史

2020年3月8日更新


1928年(昭和3年)

時期不明

有馬線開業に先立って小部駅(現・鈴蘭台)南側に車両工場を設置。

  7月  4日

神戸有馬電気鉄道に鈴蘭台・三木間の線路敷設免許が下りる。

11月28日

有馬線開業とともに小部駅(現・鈴蘭台)開業。


1932年(昭和7年)

  8月  1日

小部駅を鈴蘭台駅に改称。

1936年(昭和11年)

  6月29日

神戸有馬電気鉄道が三木電気鉄道を設立。

11月14日

鈴蘭台・三木間の免許を三木電気鉄道に譲渡。

12月28日

鈴蘭台・広野ゴルフ場前間(13.5㎞)が非電化で芸備鉄道(現・JR西日本芸備線)からガソリンカー2両(キハ3・4)を借り受け三木線として開業。キハ4の状態が思わしくないため、国から認可を得ずに鉄道省より三田駅で使用されていた2800形蒸気機関車2802号機を借り入れ。

途中駅は鈴蘭ダンスホール前(現・鈴蘭台西口)、藍那、木津、木幡、栄、押部谷。(木津・木幡・栄は後日開業とする資料もあり)

1937年(昭和12年)

  4月15日

電化。電車での運転開始。ガソリンカーと蒸気機関車を返却。

     17日

三木福有橋(現・三木)までの延伸が承認される。

     27日

藍那・押部谷間に木津駅開業。(三木線開業と同時に設置されていたとする資料もあり)

  6月15日

木津・押部谷間に木幡・栄駅開業。(三木線開業と同時に設置されていたとする資料もあり)

     24日

広野ゴルフ場前・三木東口間で連絡自動車を運行開始。

12月28日

広野ゴルフ場前・三木東口(現・三木上の丸)間(5.1㎞)が開業。途中駅は志染、久留美(現・恵比須)。

連絡自動車の運行終了。

 

1938年(昭和13年)

 

  1月28日

三木東口(現・三木上の丸)・三木福有橋(現・三木)間(0.7㎞)が開業。三木線全通(19.3㎞)。

  5月19日

福有橋変電所を新設。

  7月  3日~  5日

阪神大水害で土砂崩れ、軌道流出による脱線転覆などにより甚大な被害を受ける。

1939年(昭和14年)

  4月  1日

久留美駅を恵比須駅に、三木東口駅を上の丸駅(現・三木上の丸)にそれぞれ改称。


1942年(昭和17年)

12月22日

広野ゴルフ場前駅を広野新開駅に、鈴蘭ダンスホール前駅を小部西口駅(現・鈴蘭台西口)に改称。

(戦時中の外来語追放によるもの)

1947年(昭和22年)

  1月  9日

神戸有馬電気鉄道が三木電気鉄道を合併。神有三木電気鉄道に社名変更。

1948年(昭和23年)

時期不明

輸送力増強のため鈴蘭台駅北側200m付近に4線をもつ検車庫を設置。役目を終えた現在も2線が残り留置線として活用されている。

10月  1日

上の丸駅を三木上の丸駅に改称。

1949年(昭和24年)

  2月  2日

三木福有橋(現・三木)・粟生間の線路敷設が運輸省に認可される。

  4月30日

神有三木電気鉄道から神戸電気鉄道に社名変更。

  6月25日

三木福有橋(現・三木)・粟生間の線路敷設がGHQに認可される。


1950年(昭和25年)

  3月  8日

広野野球場前駅(現・緑が丘)を押部谷・広野新開(現・広野ゴルフ場前)間に新設

1951年(昭和26年)

  4月  1日

広野新開駅を広野ゴルフ場前駅に改称。

12月28日

三木福有橋(現・三木)・電鉄小野(現・小野)間(6.9㎞)が開業。途中駅は大村、樫山、電鉄市場(現・市場)。

1952年(昭和27年)

  4月10日

電鉄小野(現・小野)・粟生間(3.0㎞)が開業。全通(29.2㎞)。路線名を粟生線に改称。途中駅は葉多。

10月  1日

木津、木幡、栄、大村駅をそれぞれ電鉄木津、電鉄木幡、電鉄栄、電鉄大村駅に改称。(同名の国鉄駅との差別化を図るため)

1954年(昭和29年)

  1月  1日

三木福有橋駅を電鉄三木駅(現・三木)に改称。

1958年(昭和33年)

  6月15日

広野野球場前駅を緑が丘駅に改称。


1962年(昭和37年)

  9月  1日

小部西口駅を鈴蘭台西口駅に改称。

1966年(昭和41年)

  4月18日

3両編成の運転開始。

1968年(昭和43年)

この年から毎年7月〜9月末に恵比須駅から平井山観光ぶどう園までの無料送迎バスを運行開始。


1970年(昭和45年)

  3月31日

新造車両の増備に伴い鈴蘭台駅南側780m付近に鈴蘭台検車庫・車両工場を新設。現在まで車両の拠点として機能している。

  6月  5日

鈴蘭台西口・藍那間に西鈴蘭台駅が開業。

1971年

  3月  4日

デ213が神戸方先頭に立った編成が小野駅停車中に運転士によるブレーキのかけ忘れで粟生方面に向けて動き出し、無人状態で暴走。もちろん葉多駅も通過し、粟生駅に停車中だったデ1000形2両編成(1002F)に突っ込んだ。デ1001は粟生駅待合室に突っ込み前面が大破、デ1002は車体が「く」の字に折れ曲がり大破、デ213は前面が大破するなど甚大な被害を受けた。

しかし全車廃車されることなく、1002Fは完全に元の姿に復元された。デ213は前面を作り直し、非貫通ののっぺりとした外観になった。

1972年(昭和47年)

  4月  6日

押部谷変電所を新設。

1974年(昭和49年)

  4月  5日

4両編成の運転開始。

  9月  2日

粟生線複線化第一期工事のうち川池信号場の新設が認可される。

  9月12日

粟生線複線化第一期工事のうち見津信号場(未成)・押部谷間の複線化が認可される。

1975年(昭和50年)

時期不明

鈴蘭台検車庫・車両工場を拡張。

10月16日

川池信号場を新設。

10月17日

粟生線を含む全線でATS(自動列車停止装置)の設置が完了。

1978年(昭和53年)

11月12日

新開地・志染間で5両編成の運転を開始。5両編成非対応の駅はそれぞれホームを延伸、志染駅も3線に改築。

1979年(昭和54年)

11月16日

電鉄木津(現・木津)・電鉄木幡(現・木幡)間に見津信号場を新設して見津信号所・押部谷間(4.0km)を複線化。粟生線複線化第一期工事が完了。それに伴い木幡・栄・押部谷の各駅を改築。


1980年(昭和55年)

  7月23日

皇太子・同妃殿下(現在の天皇・皇后両陛下)が新開地・志染間をご乗車される。お召列車として充当されたのは3010F。

1982年(昭和57年)

10月31日

西鈴蘭台・藍那間(1.7km)を複線化。粟生線複線化第二期工事が完了。

1983年(昭和58年)

  3月

第二(見津)車庫新設に伴い見津信号場を改築。

1984年(昭和59年)

10月

5両編成列車の増発のため広野ゴルフ場前駅を島式1面2線に改築。列車離合が可能になる。

10月17日

第二(見津)車庫新設。

第一期工事(留置線3線18両分の設置などそれにかかる工事)完了。

1988年(昭和63年)

  4月  1日

神戸電気鉄道から神戸電鉄に社名変更。

電鉄木津、電鉄木幡、電鉄栄、電鉄三木、電鉄大村、電鉄市場、電鉄小野をそれぞれ木津、木幡、栄、三木、大村、市場、小野に改称。

  4月  2日

神戸市営地下鉄・北神急行電鉄との連絡運輸開始。

1989年(昭和64・平成元年)

11月28日

川池信号所・見津信号場間(1.8km)を複線化。粟生線複線化第三期工事完了。


1990年(平成2年)

  7月

市場駅に小野駅より保線基地が移転する。

  9月

旧貨物線を改良し新造車両受け入れ線が完成、初めての新型車両の搬入を行う。

  11月  1日

通路の舗装が完了し、資材・車両搬入基地として完成。

1991年(平成3年)

  4月23日

小野駅を橋上駅舎化。

12月18日

石井ダム建設に伴う菊水山・鈴蘭台間の上り線移設完了。菊水山トンネルの使用を開始。

1992年(平成4年)

 

この年をピークに粟生線の収益は下降線を辿る。

 

1995年(平成7年)

  1月17日

阪神淡路大震災発生により粟生線を含む全線で不通。粟生線は被害が西鈴蘭台・藍那間の地盤沈下(最大200mm)程度で抑えられたものの、志染始発列車の大半が乗り入れている有馬線鈴蘭台駅以南の被害は大きく、特に長田以南のトンネルや地下線は復旧の見通しも立たないほどであった。

  1月17日~  1月19日正午

被害の軽微な鈴蘭台~粟生、鈴蘭台~有馬口、有馬口~三田、横山~フラワータウン(当時はフラワータウンが終点)の復旧を優先。運行再開に向けてダイヤグラム、時刻表、スタフの作成にも取り掛かった。

  1月19日

正午から試運転を開始。15時から復旧作業を進めていた区間で営業運転を再開。

終日30分ヘッドで普通列車を運転。粟生線の一部列車は北神急行電鉄との接続(湊川・鈴蘭台間の振替輸送によるもの)を行うため有馬線谷上駅まで直通運転を行った。

  1月21日

JR西日本福知山線が全通したため大阪・神戸間、姫路・神戸間をつなぐルートとして被災者に貢献する。

  1月26日

鈴蘭台・志染間の列車を増発。

  2月  7日

鈴蘭台・長田間が復旧し45㎞の速度制限があるものの7分半ヘッドで運転を再開。粟生線の列車も長田まで乗り入れを再開。このとき、列車に”長田”という方向幕は用意されておらず、下りホームを削り構内にポイントを、長さが足りなくなった下りホームは粟生方に仮設ホームを設置し急ごしらえの折り返し設備を使用してのものだった。上りホームには臨時改札口が設けられた。

  6月22日

長田・新開地間で運転再開。3月31日に運転を再開した有馬口・有馬温泉間を含め全線が復旧。以後は運行中や終電後の補修作業に移った。

  9月10日

石井ダム建設に伴う菊水山・鈴蘭台間の下り線移設完了。

1998年(平成10年)

  3月22日

ダイヤ改正で快速列車の設定がなくなる。

1999年(平成11年)

  8月  2日

木津駅を橋上駅舎化。

10月  1日

スルッとKANSAIに加盟。スルッとKANSAI共通カード(プリペイド式の磁気カード)に対応し、神戸電鉄「すずらんカード」の発行を開始。

スルッとKANSAI加盟に伴い粟生駅で新ホームの供用を開始し、JR西日本・北条鉄道と改札を分離。加古川線との同一ホームでの乗り換えが不可能になる。


2001年(平成13年)

  6月23日

恵比須~粟生の各駅で4両編成対応工事が完了し、粟生線全線で4両編成の運用が始まる。

各駅でこの工事の痕跡はホーム上にはっきりと残されており、特に三木駅では上り線と下り線で改札が分離されるなど大工事となった。

2004年(平成16年)

  1月11日

新開地・粟生間でワンマン運転開始。

車内で精算を行う一般的なワンマン運転とは異なり、駅に設置されている自動改札機で精算を行ういわゆる”都市型ワンマン”方式である。

2009年(平成21年)

 

神戸電鉄が沿線自治体や乗客などに向けて粟生線が慢性的な赤字により廃線の危機にあることを明らかにする。

 

  3月20日

阪神なんば線の開業に伴い神鉄を含めた関西私鉄が一斉にダイヤ改正。

粟生線では快速列車が11年ぶりに復活し、5両編成での運用が消滅。これにより増結用に使用されていた非冷房のデ1050形2両(デ1062・1064)、デ1070形3両(デ1071~1073)が運用を離脱し、その後運用に入ることなく廃車されたため冷房化率100%を達成した。

11月

神戸電鉄と沿線3市(神戸市、三木市、小野市)により粟生線活性化協議会が発足。オブザーバーとして兵庫県が参加する。

2010年(平成22年)

  3月

粟生線活性化協議会が”(第1次)神戸電鉄粟生線地域公共交通総合連携計画”を策定。

  5月22日

6004Fに粟生線活性化マスコット”しんちゃん”(黄色い服を着た白い犬)と”てつくん”(6000系車両をモチーフにしたもの)のステッカーを貼り、6004号車の乗務員室助手席側に”しんちゃん”のぬいぐるみを設置(6003号車に設置されていることもあったが現在は両先頭車に設置)してマスコット列車として運行を開始。小野駅で午前中に出発式も行われ、出発式参加者には記念のストラップが配布された。


2011年(平成23年)

 

神戸電鉄は2011年度内での粟生線の存廃決断を目指す。

 

  7月頃

上下分離方式(公有民営化とも。軌道や駅など設備の保有を自治体に、列車の運行を鉄道事業者に分離するシステム)の導入、それによる設備の購入を沿線3市(神戸市、三木市、小野市)に提案するも3市は難色を示す。

12月28日

神戸電鉄と沿線3市、県は翌年1月末までに存廃を決定することを表明。

2012年(平成24年)

 

粟生線活性化のための活動が活発になる

 

  2月  7日

井戸敏三県知事が、沿線3市と県から神鉄に総額40億円の無利子融資を2012年度から2016年度までの5年間で行うことを表明。これは2014年度内に粟生線の状況を再評価し残り2年の方針を決定するもので、2015年3月末までの廃止は免れることとなった。

  3月25日

5002Fの両先頭車をラッピングした”HAPPY TRAIN☆”の当選者向け試乗会とそれに先立つお披露目式が志染駅1番線で行われた。

→5002F”HAPPY TRAIN☆”についてはラッピング列車・ヘッドマークのページをご覧ください。

  5月19日

ダイヤ改正を実施。大まかな内容としては

  • 志染以西の日中の列車本数を1本/hに減便。(減便前:三木・小野間4本/h、小野・粟生間2本/h)
  • 日中の4本/hのうち2本を急行に、残り2本は上り列車を準急、下り列車を普通に変更。

見てわかるように大減便となり、粟生線の現状が反映された形となった。

2013年(平成25年)

3月

粟生線活性化協議会が”(第2次)神戸電鉄粟生線地域公共交通総合連携計画”(2013年度~2016年度)を策定。

  3月19日

6004Fマスコット列車をミュージアムトレイン”しんちゃん&てつくんミュージアム”として運行開始。

→6004F”しんちゃん&てつくんミュージアム”についてはラッピング列車・ヘッドマークのページをご覧ください。

  6月1日

有馬線での脱線事故復旧に伴う暫定的なダイヤ改正。粟生線列車に変更はなし。

  7月29日

有馬線での脱線事故復旧に伴うダイヤ改正。粟生線列車に変更はなし。

2014年(平成26年)

 

当初の計画通り年度内に粟生線の状況を再評価し、残り2年分の方針決定を目指す。

 

  6月28日

有馬口駅構内ポイント改良に伴うダイヤ改正。同時に粟生線ではさらなる減便が行われた。

2015年(平成27年)

  1月

小野市(蓬莱務市長)が上下分離方式に前向きな発言をするも、議論が必要であると慎重な姿勢を示す。

  3月30日

粟生線活性化協議会で神戸電鉄が上下分離方式や他社線の廃線事例に関する資料を配布し危機感を煽る。

それまでオブザーバーとして協議会に参加していた兵庫県が委員としての参加を表明。

小野市は上下分離に対して今まで通り前向きながらも慎重な姿勢を見せるも、三木市は頑なに上下分離に反対する姿勢を見せた。

  3月31日

粟生線活性化協議会の北井信一郎会長(三木市副市長)が協議会会長を突如辞任。

  7月13日

粟生線活性化協議会で会長に三木市の藪本吉秀市長が就任。

2016年(平成28年)

  1月

粟生線活性化協議会の藪本吉秀会長が協議会を、2016年4月から地域公共交通の活性化及び再生に関する法律に基づく法定協議会に移行させることを提案する。

  4月25日

粟生線活性化協議会が法定協議会に移行する。

  5月22日

ダイヤ改正。主な変更点は以下の通り

  • 粟生駅で他社線と接続しない一部列車の小野・粟生間運転取りやめ。
  • 一部列車の運転区間短縮。
  • 土休日夕方の下り快速列車を準急に変更(3両編成の快速消滅)し、先行する押部谷行きの運行を取りやめた。

12月26日

兵庫県と沿線3市が2012年から続いていた無利子融資を打ち切る方針を固める。

粟生線の赤字は依然深刻であるが、神鉄の鉄道事業全体で黒字化を達成したため。

新型車両導入などの設備補助は継続。


2017年(平成29年)

  3月25日

ダイヤ改正。主な変更点は以下の通り

  • 昼間時間帯の新開地・志染間列車4本/hのうち2本の運行区間を新開地・西鈴蘭台間に短縮し上り列車の種別を準急、下り列車の種別を普通に統一(昼間時間帯の急行列車運行を取りやめ)。
  • 朝ラッシュ時間帯の上り普通列車1本を急行列車に変更。

2018年(平成30年)

  1月31日

スルッとKANSAI共通カードの利用可能期間終了

  3月  4日

夕方頃三木駅周辺で住宅火災が発生。三木駅下りホーム側駅舎に燃え移り、およそ1時間45分後に鎮圧されるも全焼。

  5月19日

メモリアルトレイン(1152F)デビュー。

  7月22日

メモリアルトレイン(1360F)デビュー。

2019年(平成31年・令和元年)

  9月12~14日

チェリーヒルズゴルフクラブでのコニカミノルタ杯開催に伴い、日中の志染行き列車の三木駅までの延長運転を実施。


2020年(令和2年)

  3月14日

ダイヤ改正。主な変更点は以下の通り

  • 快速列車の運行取りやめ。それに伴い夕ラッシュ時の押部谷行き列車(藍那・栄間各駅の救済列車)の設定もなくなる。
  • 小野・粟生間でのJR加古川線・北条鉄道線列車との接続がない列車の運行取りやめ。
  • 日中の西鈴蘭台行き列車の運行区間を新開地~西鈴蘭台から鈴蘭台~西鈴蘭台に短縮。
  • 日中の志染行き列車の運行区間を三木まで延長。
日中時間帯の志染~三木延長運転は三木市の費用負担によるもので2年間の暫定措置です。

2022年(令和4年)

  3月14日

ダイヤ改正。主な変更点は以下の通り

  • 急行列車の運行取りやめ。線内の駅を通過する営業列車の設定がなくなる。
三木市の費用負担による日中時間帯の志染~三木延長運転はこの改正でも継続されています